夏休み雑感

「文学部になったんだし、noteをこれまで以上に頑張ろう」なんて言葉はどこへ行ったのか、ほとんどものが書けていない。リハビリ程度に近況報告を書こうと思う。テーマは随時募集中なので、何かあれば。いや、頼むからくださいSNSなんででも。

日中。遅起き。支度をしたら、繰り返されるバイトと車校

教えるのは楽だが、好感は相性次第。車校に至っては、教官に「はい」と返す機械になっている。学科にも興味ないし、運転は苦手。(これを書いている時点で、卒検に1回落ちている状態だ。内容?一度もミスらなかったはずの黄ポールに激突。次は受からねば。)

そんな単調な日常。いつの間にか、社会に吸収されてしまいそうだ。

すり減った心をリセットするため、夕方には仮眠を取る。寝ればある程度忘れてくれるなんて、この体には感謝しておかねば。

夜は思い思いに過ごす。

文学と映画に関しては、むさぼるように古典を吸った。

文学は、日本のもので『平家物語』や『徒然草』を。翻訳版は『フランケンシュタイン』やら『オトラント城綺譚』やら、ゴシックものを読み返している。何年か前に読んだはずのものも、雰囲気ぐらいしか覚えていないのが悩みどころだ。文学部(+教育国文)の皆さん、明治文学への造詣の深さがうかがえるので、そちらにも手を出していきたい。

映画はヒッチコックトリュフォー黒澤明あたり。ディズニーマニアを名乗りながら古いディズニー作品もあまり詳しくないので、DC、マーベルあたりと一緒にこちらもこつこつ消化している。

理系分野は…? 春学期から懲りずに続けている恐竜関連。宇宙も少し。ロマンチックなものに興味がある。秋は対面に惹かれて化学の授業を検討しているし、これからも道楽として続けていけそうだ。

賑やかな夜もある。クラスの友達とサシでZoomしたり、高校同期と読書会したり。話題に乏しいのが悩みだが、本当に楽しい時間だ。ことし前半失っていた深みを、少しずつ取り戻せている気がする。もっと充実させたいし、良い時間にしたくて、色々勉強しなきゃなと思う。

Twitterにも浸かった夏だった。少し依存気味なので授業開始後は改善していきたいが、多くの縁ができたのは事実だ。LINEで夜通し語る人もいて、色んな世界を学べた。昔の友達にも、また投げかけてみようか。

あと、真面目に取り組んだこと…。ポケモンカードか。PTCGO(Pokémon Trading Card Game Online)というパソコンアプリで、空いた夜にはオンライン対戦をしていた。

休日は、地元の大会へ。予約はすぐに埋まってしまい、抽選枠もなかなか当たらず苦労した。運良く参加できた回では、2位-3位とそこそこの結果を出せた。対戦相手との会話が弾んだという意味でも、2万弱の投資は間違ってなかったと思う。

強い友達に頼み込み、何度かZoom対戦も実現した。昔は力任せに戦っていたけど、徐々に頭の使い方を覚えてきた気がする。10月初めに大型大会があるのだが、抽選、当たるといいな。中高時代のリベンジがしたい。

そうそう、遊びの話がまだだった。人と会ったのは…4回。親友の変わりように驚いたり、初対面でほとんど話せなくて後悔したり。定期がなく自分だけで出かける気が起きないから、精力的に町歩きはできていない。インスタの賑やかさをみると焦るけど、まあここは自分のペースだ。

秋学期は、文章系の授業や法/経済にも手を出す予定だ。対面は…馴染みのない分野も入れて、3コマぶん作れるかどうか。とことん興味に生きているが、専攻をどうする気だこの男は…。(成績順!)単位はとれるが、誰か成績をくれ。特に二外。

それと、現代文学も少しずつ読めるようになりました。おすすめがあればぜひ教えてください。今度は、保留する前に買うようにします。

勉強観の整理

思考の書き残しとして。

まず、勉強には3つの要素があると考えている。

①課されたことをしっかりこなす

「勉めることを強いる」と訳せば、これが一般的な「勉強」なのだろう。受験勉強なんてまさにこうだっただろうし、今も必修なんかはこの分類のはずだ。

②一つの道を極める

歴史なら歴史に突っ走る、文学なら文学に突っ走る。その過程で他分野のことも触れるかもしれないけれど、軸が一つに決まっていてあくまでそれが基準となっている。これぞ本物の「オタク道」だろうし、尊敬の対象である。

③好奇心の赴くままに知る

やりたいことをやりたいように得ていくこと。文理を含め、分野の垣根を越えることもいとわない。②も本人の認識の上ではこちらに分類されるのかもしれないが、特定の軸を持たない点で別分類とした。強制されるという負荷がかからないので、(①は言わずもがな。②の場合でも、「ここは基礎だから外せない」みたいな内容はあるはずだ)むしろ道楽と呼ぶべきかもしれない。

 

この三要素が少しずつ現れて、各々の勉強観が形成されているのだろうとぼんやりと考えている。

すると自分の場合、③に振り切れている。ディズニーで②だと思われるかもしれないが、あれは好奇心には先立たない(ディズニーを網羅的に学びたいというわけではない)。

 

そして、「勉強で遊ぶ」のはもっと面白い。歴史を使ってディズニーを眺めたり、友達と読書会をしたり、空想的な仮定の下で語り合ったり。“勉強”と”遊び“が融合するところが好きだ。例えば映画を観てぼんやりと考えたり、ポケモンカードを教わって新たな気づきを得たり。だから、“勉強”と“遊び”の間に色分けをしていない。

 

かといって解釈のしすぎがよいかというと、そういうわけでもない。

例えば以前日本史の授業で、いわゆる「おとぎ話」と寄合社会の関係性が取り上げられたことがあった。そこで「おじいさんは山へ芝刈りに」という一節に「入会地のものを勝手に取っちゃだめ!」と合いの手が入れられていたのだが、分析のしすぎはロマンをも潰してしまう。学識が物語を侵略している気がするのだ。行楽地である舞浜にはこの問題は常につきまとうし、何でもかんでも分析しようとは思っちゃいない。楽しいかどうかが一番大事だ。

 

では、適切な場所で適切に知識を発揮するべきなのか?それはそうだ。しかしこの判断は場に依存するべきではなく、自分自身が行うべきものだと思っている。空気を読むことが先立つのではなくて、その話題に対する自らの価値観が反映されるべきだ、ということだ。

上記を総合した立場であるために、不純な動機に対しては人一倍嫌悪感を持つ。「実績づくり」のためのイベントへの参加や、「安定した生活」から逆算して勉強内容を選ぶようなもののことだ。カモだとか主流層だからとかそういう妥協は抜きにして、やっぱりここは相容れない。

映画評『モンスターズ・ユニバーシティ』(2013)

ディズニー系の中でも、ピクサー映画が好きだ。

『白雪姫』や『ピノキオ』などのいわゆる「ディズニー・クラシック」は、アカデミックな視点で考察することが多い。原作が近代文学であることもあって、ウォルトがそれをどう再構成したかに重きを置きがちだ。ディズニー映画を語るとき、僕はひとりの“物知り”にすぎないのかもしれない。

対しピクサー作品は、素朴な姿勢で観ることができる。“トイ・ストーリー”、“カーズ”シリーズをはじめとした、スタジオ独自のキャラクター。背景にあるテーマも、誰にでもあてはまる根本的なものが多い。ぐるぐると巡る考えも、観る時期ごとに違ってくる。

 

 今回題材とする作品は、『モンスターズ・ユニバーシティピクサーの名作『モンスターズ・インク』の前日譚だ。サリー中心の前作に対し、本作ではマイクを主人公として二人の大学時代が描かれる。

 

努力のマイク、才能のサリー

 誰よりも努力家だけど、怖がらせ屋としての才能に欠けるマイク。素質は抜群、名門サリバン家の出身だが、それにかまけ努力を怠るサリー。「自分がどちらの側か考える」というのは、この映画を自己投影する場合には必ず通る道だと思う。

 まずは本作の主人公マイク。幼少期、モンスターズ・インクへの遠足のシーンからこの物語は始まる。マイクは友達からも仲間はずれにされがちだった。素質面での不利は大学入学後も続いたが、なんとか猛勉強で挽回を図ろうとしていた。

 ついには学長にも「怖くない」と言われ、それを乗り越えようとし続けてきた。しかし、最後はどうすることもできなかった。猛勉強して多くのパターンを知っているはずなのに、爪で物音を立てながら行う彼の怖がらせはフランク・マッケイ(マイクに帽子をくれた怖がらせ屋)の踏襲をにおわせる。個性を活かした怖がらせを発揮したウーズマ・カッパの他のメンバーと比べて、マイクは型を編み出せなかったとも解釈できる気がする。コーチングで活躍をみせたのはあくまで別方面の活路であって、夢に向かっての成功ではない。

 次にサリー。初講義から完璧な吠え声を見せ、名門の出身として注目される。アーチー(フィアー・テック大学のブタ)捕獲の手柄を横取りできるくらいには、マイクより社会的な力がある。しかしそれにかまけ全く勉強しなかったため、期末試験では彼も落第してしまう。

しかし、努力を身につけたあとのサリーは十分な実力を獲得する。彼は残酷にも、マイクに素質がないことをわかってしまう。うわべでは感覚に身を任せることを教えるが、実際は計器の細工に走らざるをえない。(人間界で子どもに「かわいい」と言われていたことからも、そのままにしていてもマイクが高得点を記録できたとは考えにくい)

 “努力はすればどうにかなるが、才能はなければどうしようもない”という現実の断片が、やわらかくではあるが確実に突きつけられている。あれだけ怖がらせ屋を夢見たマイクも、その夢をストレートに叶えることはできなかった。「夢が望んだ形で叶うとは限らない」というか、SFでの「過去は変えられない」に近い何か。単なるハッピーエンドではない、厳然とした考え方がピクサー作品には通っている気がする。

 

苦労人・ランドール

 サリーとマイクだけでなく、ランドールというキャラクターにも注目しておきたい。マイクのルームメイトとして登場した彼だが、最初は純朴なモンスターであった。試験合格のために勉強一辺倒の道をゆくマイクと比べ、社交の場にもバランス良く出ようとするなどむしろ彼のほうが"健全"な学生といえるかもしれない。サリーの挑発に「関わるなよ」とマイクに助言するシーンを見ても、実はかなりの常識人である。

 けれど、彼の運命はマイクとサリーに振り回される。最初はアーチーを捕獲するシーンだろう。追いかける二人組の手によって、ランドールが焼いてきたカップケーキは台無しにされてしまった。

 しかし彼は追い出されたサリーの空きを埋める形で、名門社交クラブROARへの入会に成功する。やっとエリートコースに乗ることができたわけだ。先輩の命令も忠実にこなし、なかなか上手くいっていたように見える。

 そして象徴的なシーン、怖がらせ大会の決勝戦が訪れる。相手はサリー。準備に入るランドールだったが、サリーの吠え声が響いたことで壁から振り落とされてしまう。これが元で彼は怖がらせに失敗し、得点の上でも大きく差を詰められた。大会後、ジョニーが新しいユニフォームをサリーに与えようとするところをみると、ROARをも追放されてしまったように見える。

この敗北以降、ランドールはサリーを永遠の宿敵として意識する。「いつか必ず借りを返す」と。前作『モンスターズ・インク』を見た観客には、記憶に残るセリフだったかもしれない。

こつこつと積み重ねた努力が、天才に負けて一瞬で水の泡となる瞬間。これはマイクとサリーの対比よりも、ランドールに色濃く表れているのではないだろうか。

 ここで、もう一つ注目しておきたいポイントがある。『モンスターズ・インク』で、彼はサリーの同僚として“登場に至る”ということだ。察するに正規ルートで怖がらせ屋として就職したのだろう。(これはウーズマ・カッパのメンバーたちにも言える。彼らはマイクやサリーほど尖ってはいなかったが、逆にそれが幸いしおそらく正規で怖がらせ屋となれている。なお、前作に出てきたわけではない。)

そして、その後の彼は…?そんな視点を持って前作を観てみると、ランドールの印象も変わってくる気がする。

 

おわりに

定番の青春ものならそのままのハッピーエンドで済ませるようなところに、この作品は鋭く切り込んでいる。判断役としては、学長とジョニーが適当だろう。

サリーなのか、マイクなのか、ランドールなのか。単純に分けられることではないが、属する集団に応じてどの要素も出るものだと思う。新たな環境が始まるか、始まらないかというこの時節。「自らはどうありたいか」そして「どうあるのか」そんなことを考える一端となりそうだ。