勉強観の整理

思考の書き残しとして。

まず、勉強には3つの要素があると考えている。

①課されたことをしっかりこなす

「勉めることを強いる」と訳せば、これが一般的な「勉強」なのだろう。受験勉強なんてまさにこうだっただろうし、今も必修なんかはこの分類のはずだ。

②一つの道を極める

歴史なら歴史に突っ走る、文学なら文学に突っ走る。その過程で他分野のことも触れるかもしれないけれど、軸が一つに決まっていてあくまでそれが基準となっている。これぞ本物の「オタク道」だろうし、尊敬の対象である。

③好奇心の赴くままに知る

やりたいことをやりたいように得ていくこと。文理を含め、分野の垣根を越えることもいとわない。②も本人の認識の上ではこちらに分類されるのかもしれないが、特定の軸を持たない点で別分類とした。強制されるという負荷がかからないので、(①は言わずもがな。②の場合でも、「ここは基礎だから外せない」みたいな内容はあるはずだ)むしろ道楽と呼ぶべきかもしれない。

 

この三要素が少しずつ現れて、各々の勉強観が形成されているのだろうとぼんやりと考えている。

すると自分の場合、③に振り切れている。ディズニーで②だと思われるかもしれないが、あれは好奇心には先立たない(ディズニーを網羅的に学びたいというわけではない)。

 

そして、「勉強で遊ぶ」のはもっと面白い。歴史を使ってディズニーを眺めたり、友達と読書会をしたり、空想的な仮定の下で語り合ったり。“勉強”と”遊び“が融合するところが好きだ。例えば映画を観てぼんやりと考えたり、ポケモンカードを教わって新たな気づきを得たり。だから、“勉強”と“遊び”の間に色分けをしていない。

 

かといって解釈のしすぎがよいかというと、そういうわけでもない。

例えば以前日本史の授業で、いわゆる「おとぎ話」と寄合社会の関係性が取り上げられたことがあった。そこで「おじいさんは山へ芝刈りに」という一節に「入会地のものを勝手に取っちゃだめ!」と合いの手が入れられていたのだが、分析のしすぎはロマンをも潰してしまう。学識が物語を侵略している気がするのだ。行楽地である舞浜にはこの問題は常につきまとうし、何でもかんでも分析しようとは思っちゃいない。楽しいかどうかが一番大事だ。

 

では、適切な場所で適切に知識を発揮するべきなのか?それはそうだ。しかしこの判断は場に依存するべきではなく、自分自身が行うべきものだと思っている。空気を読むことが先立つのではなくて、その話題に対する自らの価値観が反映されるべきだ、ということだ。

上記を総合した立場であるために、不純な動機に対しては人一倍嫌悪感を持つ。「実績づくり」のためのイベントへの参加や、「安定した生活」から逆算して勉強内容を選ぶようなもののことだ。カモだとか主流層だからとかそういう妥協は抜きにして、やっぱりここは相容れない。